民間文学としての会話教科書、あるいは飯倉照平先生のこと

竹越 孝

 東アジアにおける前近代の語学教材、特に会話教科書を読むのが好きである。それは、第一義的には専門である近世中国語の資料として有用だからだが、書かれている内容も、言語に負けず劣らず興味深い。語学教材が無味乾燥なものだというのは大いなる誤解で、そこには真面目くさった人生訓や、説教じみた学習の勧めに混じって、場面をそのまま切り取ってきたようなリアルさと、奇妙な味わいに満ちたエピソードがちりばめられている。

 会話教科書の内容的な面白さに目覚めたのは、学生の時に、かつて朝鮮半島で用いられた中国語会話教科書『老乞大』『朴通事』に触れたことが大きい。特に好きなのは『朴通事』の第17話で、ある僧侶が人妻に、今で言う不倫をしかけたところ、運悪く夫と出くわしてボコボコに殴られ、それを見ていた民衆からもさんざん罵られた挙句、今後の改心を誓うという内容だが、最後にある締めの諺は「一年經蛇咬,三年怕井繩」(ある年蛇に嚙まれたら、三年は井戸の縄を恐れる)で、これが教訓と言えるのかどうかわからない。この一段を読んでいた時に、金文京先生(京都大学名誉教授)が、こういう内容は中国本土の史書であれば伝承の過程で絶対に消されてしまう性質のもので、これをそのまま残しているのが語学教材の面白さなのだという話をされ、深く頷いたのを覚えている。

 ここ10年ほど、私のメインの仕事は、まだ世に知られていない清代の満漢合璧会話書を紹介することにあった。「合璧」とは対訳のことで、清王朝の北京遷都(1644)以降、あっという間に母語である満洲語を忘れ、中国語での生活にシフトしてしまった満洲旗人の、満洲語学習用に編纂されたテキスト群である。故太田辰夫博士が喝破された通り、対訳の中国語は、清代の北京語を最も忠実に反映する資料と言うことができ、その中国語史上における価値は計り知れないが、これらにも『老乞大』『朴通事』と同様に、史書からはこぼれ落ちてしまったエピソードがふんだんに盛り込まれている。

 最近になって、この資料群が持つ別の面白さを意識するようになった。清の宗室出身の鑲紅旗人、宜興(1747-1809)の編になる『庸言知旨』は、嘉慶7年(1802)の序を持つ会話教科書だが、巻末の方に風変わりな一段がある。原文は満漢対訳形式なので、満洲語の部分はローマ字に転写して表す。

 

 majige hiya silmen a. sini be tuheke. haihan inu waliyaha. erin jing ohobi. ere mari simbe alime tucike manggi. hūwangdana ocibe. bunjiha ocibe. urunakū juwan udu jafaci. bi teni simbe congkibumbi. aika sunta be delebume muterakū oci. taka simbe ergemburakū..

 𪁿兒啊,你扣了食了,葤也出了。正是時候了,這一回架出你去。黄鴠也罷,虎頭兒也罷,必要拿十幾個,我纔餐你呢。若不撐起雀兜子来,且不教你歇着。

 鷹よ、お前は餌を断って、羽毛も吐き出した。ちょうど頃合いになったから、お前を腕にかけて出かけるとしよう。黄鴠でもいい、虎頭兒でもいいから、必ずや十数羽を捉えよ、そうしたら餌を与えてやろう。もしも網袋が支えきれなくなったら、しばらくお前を休ませないぞ。(五巻本では第16章第19条、二巻本では第12章第19条)

 

 満洲語でhiya silmenと記される「𪁿兒」は鷹の一種、「葤也出了」というのは狩りの前に未消化物(ペリット)の羽毛を吐きだしたことを指す。hūwangdana(黄鴠)、bunjiha(虎頭兒)はいずれも小鳥の種類で、前者は中国語からの借用であろう。sunta(雀兜子)は鷹が捉えた小鳥を入れる網袋のこと。

 この一段は、鷹匠が狩りの前に鷹に向かって語りかけた内容そのものである。人間が動物に語りかけるという形を取る以上、想定される聞き手は人間ではない。媒介者やト書きといった、読者に場の構造を明示する要素もない。人間が飼っている動物に対して二人称で語りかけること、つまり動物をある種対等の存在として認識し、人間の言葉をもって語ること。こうした伝統は、少なくとも私の知っている中国文化には見当たらない。満洲族に代々伝承されてきた物語としては、『ニシャン・サマン伝』などが有名だが、そのような英雄叙事詩的なものとも違う。想起されるのは、私が学生時代に親しんだ少数民族の民間文学の世界である。民国期の五四新文化運動に呼応する形で興隆した民間文学の研究は、少数民族に伝わる口承文芸や民話の採集という面でも大きな成果を挙げたが、それは当然ながら、多く文字を持たない民族の口伝を、中国語で書き留めたものがほとんどである。ここで私が目にしている一節は、18世紀に文字で記録された民間文学と言えるものではないか。

 実は、私は今でこそ中国語学者のような顔をしているが、出身校の東京都立大学ではずっと文学専攻の学生で、大学院を中退して就職するまで、指導教員は中国の民間文学や南方熊楠の研究で著名な飯倉照平先生だった。私が博士課程に入って以降、次第に文学から離れ、語学の方に傾倒していったのを、飯倉先生は内心苦々しく思っておられたに違いないが、私と先生の間に感情的な波風が立つことはなかった。学生を指導するようになった現在、自分が先生と同じ態度を取れるかどうかは自信がない。2019年に先生がお亡くなりになるまで、私は毎年のように自分が作った満漢合璧会話書の校注本を送り、律儀な先生は必ず受領したというハガキを下さった。

 結局、飯倉先生の存命中に『庸言知旨』の校注本をお届けすることはできず、その一節を契機として生じた上のような妄想について、先生にお尋ねする機会もなかった。久々に自分のルーツとも言える民間文学の世界と、現在の語学研究における興味の対象が繋がったのは嬉しいが、大学院を離れて25年もたった後に、不肖の弟子がこんなことを面白がっているのだから、先生も草葉の陰で呆れているに違いない。

(たけこし たかし・神戸市外国語大学)

京大中国語学研究会『輶軒』2号(2022年12月25日)

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